たぬきのちらうら

適当に、好きなことを書く。おもにシャニマス

あなたの消せない罪について。【辻村深月著:噛みあわない会話と、ある過去について】



かがみの孤城』で本屋大賞を受賞し、
受賞後第1作目として発表されたこの作品。

4つの短編からなるこの作品で取り扱っているテーマは、
『過去のいじめについて』
だ。

『いじめ』という言葉がこの場合適切ではないのは、
この作品を読んだ人ならわかると思いますが、
結局カテゴライズするのにピッタリでもあるので、あえて使います。

結論から言うと、この作品は、
辻村深月の一つの集大成。
世にある『いじめ』というもののすべての加害者に対する、
復讐であり、罪の告発。
そして、被害者に対しての救いであり、
辻村深月にとての懺悔でもあるのかもしれない。
そして、読んだすべての人に対して、
その刃を突き付けてくる作品です。

かがみの孤城』では、いじめられフリースクールに通う子どもたちを主人公とし、
いじめられる立場のすべての子供たちの救いになるような、
光のような物語を書き上げてくれた。
こちらは本屋大賞を受賞したように広く評価され、
おそらく、少なくない数の今現在いじめられている子どもたちに、
希望を与えられるだけの力を持った作品でした。


こちらはその逆。
4つの短編で描かれているのは、
被害者側からの告発や怒り、加害者が自覚した罪。
いじめというのは、テレビで語られるような典型的なものではなく、
二人の人間の間に起こる、自覚的、無自覚的確執すべて。

最初の短編、「ナベちゃんのヨメ」で描かれているものを例にとると、
友達以上、恋人未満の男友達に対してとった、
同じ大学サークル内の女性たちがとった無自覚な拒絶。
読んだ人によっては、ほんとに何でもない出来事と感じるかもしれない。
ただ、男友達というポジションで彼を4年間生殺しにしたことが、
どういう結末をたどったのか。
そこは読んでみていただきたいので書くことは控えますが、
結末にヒヤリとさせられることは間違いありません。


残りの3作も、軸は同じ。
小学校の先生と生徒。
親と娘。
小学校の元クラスメイト。
立場を変えて描かれるのは、自覚的、無自覚的いじめであり悪意。

どの作品でも、加害者側は口をそろえて言う。
「私がそんなにひどいことをした?」
「私はそんなこと覚えていない」
「それは被害妄想なんじゃないか」
昔いじめられていた立場の人間からの告発を受けての言葉。

そう、人はだれしも、何らかの形でいじめに加担しているといっていい。
それは何も子供のころだけではない。
大人になった、社会人になった今ですら、
周りの誰かに耐えがたい屈辱を与えているかもしれないのだ。
そう感じさせるの力こそが、辻村深月がこの作品に仕込んだ刃。
読んだすべての人たちに、
かつての、そして今の自分の罪を告発されるのだ。
なんて残酷な作品だと思う。
でも、罪を自覚してこそやさしくなれるということもある。
自分は、かつて傷つけたかもしれない人に謝れただろうか。
もしかして、今現在だれかをいじめる側に回ってはいないだろうか。

『いじめ』という言葉で語れないような、無自覚な形で、
誰かを傷つけていることが、ないと言い切れるか。

そう、自問自答して読んだ人を苦しめることで、
世の中から少しでもいじめをなくすのが、この作品の真の目的。
辻村深月の復讐なのかもしれない。



あとは、余談ですが、僕の消せない罪といじめられた記憶の話を。
自分語りなので、作品とは関係はあるけれども、読むに値するものでもありません。



僕はどちらかといえば、いじめられる側の人間だった。
それでも、ひどいことをしてしまったと今でも覚えていることはいくつかある。

その一つが、クラスメイトを水筒で殴った話だ。
それは、学校の帰り道。
仲のいい?4人ほどのメンバーで帰路についていた。
その中の一人に、立場で言えばのび太くんのような、
友達同士の中でいじめられる(いじられる?)ポジションの子がいた。
そのときも、小突くくらいのノリだったと思う。
デュクシデュクシと彼を小突いてるとき、
僕はたまたま手に持っていた水筒で彼を殴った。
腕でその一撃を受け止めた彼は痛そうにしていたが、
僕はというと、殴ったことでへこんでしまった水筒のことを、
彼の責任だと責め立てていた。
痛い思いをしたうえで、責められる言われなんて何一つないだろうに。
僕は水筒をへこませたことが悲しかったのだろう。
結局、水筒のことは親にどこかにぶつけたとごまかし、
へこませたことは怒られ、しばらくその水筒を使い続けていた。

だけれども、水筒を見るたびに、殴ったことを思い出すのだ。
あとからあとから、自分のしたことの酷さに後悔をする。
20年たった今でも覚えているような、罪の記憶へと変化した。

結局、そのときいじめられいた彼は、中学受験で離れることとなり、
一度もそのことを謝る機会はなかった。



もう一つは、いじめられた記憶。
これだって、加害者はもう覚えてすらいないだろう。
小学5年生のときのこと。
僕は当時は背の順が一番前で、とにかく泣き虫で、
女子からもたぬきくんと君付けで呼ばれるような、
女々しくて弱い生き物だった。
それでも、友人は居たし楽しく生きていたと思う。

そんなある日の昼休み、教室の入り口である女子に呼び止められた。
クラスでも美人なタイプの彼女は多くのクラスメートが見てる中、
「好きです、付き合ってください」
と僕に告白してきたのだ。

小学5年生の自分には恋愛感情はなく、恋愛のれの字もわからない。
いきなりのことに戸惑っているうちに、
見ていた女子男子はヒューヒューと囃し立てる。
そして、
「ごめんね、今の罰ゲームで告白したの。気にしないでね」
とネタ晴らし。
正直、何が起きたのかもわからないまま、嵐のように過ぎていった出来事だった。
どうやら、トランプに負けた罰ゲームで、
僕に告白するというものがあったらしい。

あとから自覚したとき、強い屈辱を覚えた。
自分は、そういう対象なのだと。
男としての自信なんて、そのときから大して持ち合わせていなかったが、
馬鹿にしていい、おもちゃにしていい、男としてみることのない。
そういう、扱いをしていい人間だと思われている。

結局、このときの屈辱と打ち砕かれたプライドは長年引きずった。
中高と、恋愛面で自分に自信を持てたことなんて一度もない。
今もなお、男として容姿や外見に自信を全く持てないのは、
このときのトラウマが残っているからだと思っている。

きっと、告白してきた女子は、こんなこと覚えていないだろう。
そう、『噛みあわない会話と、ある過去について』に出てきた
加害者たちと同じ。

自分が覚えてすらいないような些細な出来事で、
人の人生に傷を残していることは、確実にあるのだ。
そして、僕も、作中の被害者たちも
自分の中で受けた傷を広げている。
人によっては、なんでもなかった出来事として忘れられたのかもしれない。
でも、僕にはできなかった。

自覚のある罪、自覚のない罪。
多くの罪を抱えて、誰かに傷を負わせて、ここまで生きてきている。
そのことを、この作品は否応なしに感じさせる。


かつていじめた過去のある人も、ない人も、
この作品を読んで今一度、自分の罪と向き合うべきだ。
そうやって痛みを知ることで、もう少しだけ人にやさしくなれると思う。