たぬきのちらうら

適当に、好きなことを書く。おもにシャニマス

浅倉透のGRADは純文学だったという話。

シャニマスは文学。

 

なんてことを言えば、

「まーたオタクが好きな作品を文学とか言ってさも高尚かのように語ってるよ気持ち悪!」

と、思うかもしれない。

僕自身、あんまりこういう言い方はしたくない。「Fateは文学」という言いざまが散々馬鹿にされたように、やっぱり言葉としてはあまり適切ではないのだろう。(Fateが文学かどうかは僕には論じられない。アニメとFGOしか知らないので)

ただ、浅倉透のGRADは文学だった。

それも、純文学だ。

 

よかったから、深みがあったから文学というのではオタクの妄言である。なので、何故純文学なのか。をしっかりと説明したい。

自分の話はあまりしたくないのだが、僕は4年制大学の文学部で近代文学を勉強してきた人間だ。それなりには文学作品にも触れ、論文も書いている。オタクであることに違いはないが、文学を研究した人間の視点でもあるとだけ、僕の言い分の説得力の根拠として置いておく。

とはいえ、論文のように堅苦しければ読むのも面倒なので、ライトに説明していきたいと思う。

 

 

  1. 純文学とは何か
  2. 芥川賞受賞作から見る傾向
  3. 社会と浅倉透
  4. おわりに

 

 

 

1.純文学とは何か

 

 

文学である。という話をする場合まず一番の問題として、文学とは何か。という話が出てくる。正直、これに関して画一的な定義はない。辞書の上での定義はあるが、それがすべてとも言えない。「文学である。」という語りの大きな問題の1つだ。高尚であれば文学なのか。評価されていれば文学なのか。私小説であれば文学なのか。古ければ文学なのか。定義はないし、はっきりとはしない。

例えば、源氏物語は古典文学と言われているが、ストーリーだけなぞれば光源氏のハーレムものであり、紫式部の書いた同人誌である。

近代でも、例えば武者小路実篤の作品など白樺派は、あまりに理想的現実が過ぎる。僕は実篤の作品と思想が大好きだが、当時テレビドラマがあれば、月9枠で放送してそうな物語だと思う。

文学といっても、いろいろなのだ。

では、純文学はというと、辞書の上での定義をまず見てみたい。

純文学の定義について話すとそれだけで1本の論文のようになってしまうのでここでは語らないが、簡単に一番多く言われることとして、大衆小説と比較しての純粋な芸術として指すことが多い。 

 

じゅん‐ぶんがく【純文学】

じゅん‐ぶんがく純文学】 ①広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。 ②大衆文学に対して、純粋な芸術を指向する文芸作品、殊に小説。

sakura-paris.org

 

純文学となればこうなる。

では「浅倉透のGRADは美的情操を訴える文学だったのか」と言われるとそれも違う。今回僕が純文学だと感じた一番の理由は、そこではない。結論を言おう。僕が浅倉透のGRADから感じたのは、芥川賞作品の傾向だ。

 

大衆小説と純文学という2分したカテゴリが当てはまるものとして、もっと世間的に身近なものが直木賞芥川賞である。文藝春秋菊池寛が創設した、日本で最も有名な文学賞。最もすぐれた大衆小説に直木賞を。最もすぐれた純文学に芥川賞をという形である。芥川賞は新人発掘の側面もある。また、この定義から両方を同時に受賞することはできない(そういう規定になっている)が、両方に同じ作品がノミネートされたことは過去にある。

 

その、芥川賞受賞作との比較から浅倉透のGRADを見ていきたい。

 

 

 

2.芥川賞受賞作から見る傾向

 

 

 

僕は1年前、ノクチルと村上龍芥川賞受賞作「限りなく透明に近いブルー」の比較・類似点に関しての記事を書いた。

 

agtor.hatenablog.com

 

 

天塵を読んだ時から、気になっていた傾向ではある。限りなく透明に近いブルーに関しての話は上記記事に詳しくあるため割愛するが、日本を代表する純文学の書き手とその代表作とだけ説明しておく。ざっくり芥川賞受賞作の傾向を言うと限りなく透明に近いブルーのように現代社会と私」を鮮明に切り取った作品だと思っている。

 

僕もそれほど多くの芥川賞受賞作を読んでいるわけではないのだが、近年で言うと宇佐美りんの「推し、燃ゆ」や村田沙耶香の「コンビニ人間」今村夏子の「むらさきスカートの女」などを最近読んだ。特に「推し、燃ゆ」は話題にもなったし皆さんの記憶に新しいと思う。

 

www.amazon.co.jp

 

推しがいる人生。推しに生かされている人生を書いた。まさに現代社会に生きる高校生の一人をありのままに切り取っている。そこから見える社会の問題はもちろん、現代の生き方の1つを鮮明に切り取っており、その苦悩や辛さ、推しに生かされているという生き方、アイドルを信奉する宗教的な気持ち。10年前ではまだ当てはまる言葉がなかった生き方に焦点を当てた作品だ。

こちらは直木賞ノミネートこそされてはいないが、芥川賞受賞と、本屋大賞のノミネートに入り大衆的にも受け入れられている。

 

 「コンビニ人間」もそうだ。コンビニ店員としてしか生きることができない主人公は、普通の生活を送ってきた人にとっては異質かもしれないが、世の中にこういう人は必ずいるのだと、強く訴えかけてくる力がある。実際、純文学ながらミリオンセラーとなっている。

 

私という視点から社会を描き、その社会の中で生きる(たいていはその生きづらさを描いている)姿を鮮明に切り取った作品が芥川賞受賞だ。

 

僕は、浅倉透という1人の人間が、社会の中で生きていく(息していく)ための物語をGRADに見た。それは、芥川賞受賞を読んだ時の気持ちと同じものだった。

 

 

3.社会と浅倉透

 

 

これは、GRADを読んだ人にとっては今更説明することでもないと思うが、

浅倉透のGRADで書かれていたのは、透を見る社会と透自身の認識の話だ。浅倉透は作品の内外問わず、カリスマ性・才能に秀でた人間と評価されている。透が何もしなくても、普通にしていても世間は高く評価、ちやほやしてくれる。だからこそ、透は自分が他のみんなみたいに精一杯生きていると感じられない。ドキドキしていない。生きている(息している)だけの存在だとさえ思いかけている。

アイドルを始めてからもそれは変わらずだったのだろう。

そんな中で、透が自分の在り方、生き方、息のしかたを知ったのがGRADの物語だ。ちゃんとハッピーエンドで終わるところはもしかすると大衆文学的かもしれないが。

 

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透は、社会からの評価と自分の生き方をしっかりと見定めることができた

 

 

思えば、ノクチル全員のGRADが、ひいてはWINGやイベントまですべて「社会と私」なのである。

・円香は何でもそつなくこなす能力とそれを見る人たちとの認識のズレ。

・小糸は頑張っている姿を見られたくない気持ちと、その頑張りを見せることが評価される社会との狭間での悩み。

・雛菜は社会がどう思おうと雛菜であり続けるという物語。

社会(場合によってはファン)と自分という主題の下でアイドルとしての在り方を見つけるのがノクチルの物語の主軸になってる。

 

他のアイドルシナリオでは、私と仕事(主に放クラ)、私たちと私たち(ストレイ)、私と日常(イルミネ、アンティーカその他もろもろ)だったりで、社会と自分を取り上げた物語はそれほど多くないと思うし、その分わかりやすく面白い物語になっている。

 

ノクチルは全員を通して、才ある人間が社会の中で生きていく姿を描いていると思う。小糸ちゃんも頑張れば学年1位であり、アイドルとしてWINGで優勝できる。まぎれもない天才の1人(こういう場合は秀才というべきか)。努力の天才なのは間違いない。

そして、ノクチルのように持って生まれた才とともに生きてきた人間もまぎれもなく現代社会に存在する。すべての人間が頑張っているから評価されているわけではない。あなたの高校時代にも1人はいたのではないだろうか。頑張らなくても、だいたい何でもできる人や圧倒的なスッピン美人が。もしかしたら、あなた自身が才ある人間としての悩みを経験してきているかもしれない。

 

ノクチルの物語は、才ある私たちと現代社会を描いた作品、純文学だと主張したい。

 

 

4.おわりに

 

 

純文学だから高尚だとか、読めだとか、そういうことを言いたいわけではない。ノクチルを通して社会を見る面白さや、生きづらさを知って共感して、他人を思いやる気持ちを持ったり。シャニマスという世界に限らず、あなたが今生きている社会の見方を広げるものとして、ノクチルのGRADを見てもらえれば僕はうれしい。

これを機に、芥川賞受賞作に興味を持ったら是非読んでほしい。「推し、燃ゆ」はシャニマスオタクとしても本当に面白かった。芥川賞受賞作はハッピーエンドばかりではないし、エンタメ性が高いわけでもない。だけれでも、社会が見える。それが本当に面白いから。

浅倉透という命を食べて、あなたのドキドキがより強くなってほしい。

生きることを、もっと、楽しめますように。

 

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ーーードキドキプロバイダ、浅倉透。無限のトキメキ、定額制でお届けします。