たぬきのちらうら

適当に、好きなことを書く。おもにシャニマス

僕と京アニ

いまだにストレスでお腹はキリキリ痛むし、

止まらない耳鳴りを初めて経験した。

京アニ放火関連のニュースを見たくないから、

リビングに転がっている新聞は裏向け、

ニュースが流れればチャンネルを変える。

ツイッターでは「京アニ」と「京都アニメーション」をミュートして、

事件後数日はアカウントからログアウトまでした。


別に、京アニに知り合いがいたわけでもなければ、

熱狂的なファンというわけでもない。

感受性が高いから悲惨なニュースにストレスを受けやすい。

そういう体質なだけ、なのだと思う。


だけれども、今回の事件はどうにも耐えられない。

自分の世界が確かに失われた。

喪失感から1週間経っても抜け出せないからだ。


僕にできるのは書くことだけ。

書くことで、少しでも気持ちを落ち着かせたい。

自分の心の整理のために。

自分語りを、したいと思う。

何をしたって、亡くなった方々は生き返らない。

自分のために、僕と京アニのことを。




初めて京アニを知ったのは、

多くの人と同じく、涼宮ハルヒの憂鬱だったと思う。

リアルタイムではなく放映から1年近くたったころ、

12年前、高校3年生のときだった。

当時は、今とは違いオタクへの風当たりは強かった。

僕自身、どちらかというとオタクを軽蔑していたほうで、

ゲームは好きだけど、深夜アニメは見ない人間だった。

そんな中、クラスに1人、典型的なイキリオタクがいた。

周囲の目なんぞ気にせず、

深夜アニメのスケジュールを教室の横の黒板に書き、

好きなアニメとなれば早口で語り、オタクであることを隠さない。

ある意味振り切っていたので、そいつは迫害されるでもなく

そういう存在としてクラスに受け入れられていた。

僕はというと、大した特徴もない陰キャで、

正直クラスの中では空気だったし、成績もよくない。

そして友達もクラスにはほぼおらず、ぼっち飯をよくしていたが、

それを苦と思わず本を読んで過ごしていた。

こんな話をしたかったわけじゃないなと思うのだけれど、

もう筆が乗るままに書ききってしまいたいと思う。


紆余曲折というほどのこともなく、

本好き、ゲーム好きでもともとオタク気質があった僕は、

なんとなく、そのイキリオタクが推すアニメを見始めた。

最初にみたのはハルヒだったと思うが、

もしかしたらローゼンメイデンだったかもしれない。

ただ、そのあたりのアニメがきっかけの1つとなり、

僕はそのイキリオタクと、

休み時間にどうでもいい話をしたりできる友人となった。

とはいえ、やっぱりオタクに対しては忌避感もあって、

らき☆すたでいうところのかがみんのような立ち位置で。

イキリオタクのこなたを、うらやましくもうとましくも思っていたものだ。


そこから、高校3年生の1年間は楽しかった。

友人のいなかった僕はイキリオタクと共にいることが増え、

彼に連れられて昼休みは放送室に入り浸るようになった。

そこでまた、オタクの友人が増えた。

当時はCLANNADを放送していたし、

KanonAirも遡ってみていた。

その話題を友人たちとしたことも覚えている。

「エロゲ原作だろ」

と、斜に構えていた自分も、そのストーリーの面白さと

映像の美しさにどんどん見入っていき

アニメやオタクへの偏見は薄れていった。

当時はニコニコ動画の1年目だったこともあり、

どんどんオタク文化に触れていくことになった。沼である。


京アニのおかげで、というわけではない。

でも、自分がオタクとなった時期に確かな存在感を放っていた。




大学生になってからも、京アニ作品はよくみていた。

とりわけ一番大きかったのは、氷菓だ。

もともと米澤穂信先生の大ファンで、

氷菓をはじめ全作品を読み、サイン会にもいくほど。

そこから日常の謎ミステリーに傾倒していき、

北村薫先生や大崎梢先生などなど

いろいろなミステリーを開拓していった。

そんな、自分のミステリー遍歴のターニングポイントにあった氷菓

それを、素晴らしい製作会社である京アニが映像化する。

その組み合わせの奇跡たるや、なんとうれしかったことか。

京アニが「次回作品はミステリー」

と、その製作をほのめかしたころから、

米澤穂信氷菓では?

という噂が流れていたのを覚えています。

実際の作品も、本当にすばらしかった。

映像美であの世界を表現してくれるだけでなく、

短編の中には原作とは少し違った後味を残すラストに改編したものも。

またこの改編も素晴らしかった。

原作への深い理解と、アニメーションだからという表現、

リスペクトを忘れることなく、アニメらしくアレンジしていく。

原作ファンは映像化に抵抗を持つものですが、

京アニ氷菓には何の不満もありませんでした。

声優陣も脇役まで実力のある方で固められ、

一切の妥協なく、最高の作品を作り上げようという

製作陣の熱い気持ちは、僕らにまで十分に伝わってきました。


アニメ氷菓自体が素晴らしいのはもちろん、

僕らに続く世代は、ここを日常の謎ミステリーの入り口として、

新たなジャンルに興味を持って行った人も少なくないと思います。

今でも、当時放送されたものは僕の部屋のHDDに録画データが残っており、

長期休暇に見返したりしています。


学生時代最後の夏には、当時同じサークルだったアニメオタクのフランス人と、

Airの鑑賞会をしよう!」

と、部屋を借りて1日中Airを見たりもしていました。

彼とも、よく京アニ作品の話はしました。

ここでも、僕と人とをつなぐ架け橋の一部として、京アニ作品があったのだと、

いま改めて思い返すと、気付きました。



社会人になってからは、アニメからは少し離れました。

それでも、京アニ元請けのアニメがあるとなると、

その放送開始をワクワクしながら待ったものです。

とりわけ、響けユーフォニアムヴァイオレットエヴァーガーデン

大きく心に突き刺さった作品です。


ユーフォのアニメは3周は見ましたし、

劇場にも見に行きました。

アニメキャラらしくない、等身大の女の子という感じと、

それでもアニメのキャラらしい設定。

正反対のこの二つのちょうど間にいる魅力的なキャラクター造形は

原作の力もありますが、やっぱり京アニにしかできない仕事。

久美子が葛藤して夜の橋を走るシーンなどは

何度も何度も見返しました。


ヴァイオレットエヴァーガーデンには何度も泣かされました。

とりわけ10話はすごかった。

ここ数年で一番涙を流したのはいつかと言われれば、


10話を見て、ヴァイオレットの涙に誘われたときです。

きっと今見返しても、泣いてしまうでしょう。


どの作品でもこれだけ心を揺さぶられるのは、

原作の力、声優の演技に、映像の力が合わさっているから。

同じ作品とキャストでも

別の製作会社であれば、ここまでの感動にはきっとなっていません。





CLANNADで河川敷に咲いていた彼岸花

千反田えるの瞳の輝き。

散る桜の鮮やかさ。

夏の海が跳ね返す太陽光。

ヴァイオレットの憂いの表情。

ユーフォニアムの輝き。

夏の校舎に降り注ぐ日差し。

あふれんばかりの光をたたえた湖。

夜の川が持つ暗いのにまぶしい光。


僕の記憶の中に残る様々なシーンを描いた人たちが

もう二度と戻ってこないという事実。

いくら文章を書こうとも、義援金を贈ろうとも

失われたものは決して戻ってこない。

自己満足でしかないけれど、こうでもしないと向き合えない。

ああもう、感情がめちゃくちゃだ。

歯ぎしりは止まらないし、胸もいたい。

こうなるのなら、書かなければよかったと思うくらいだ。


素敵な作品を、映像をありがとう。

僕は、死ぬまであなたたちが作った作品のことを覚えています。

僕に言いえることは、それだけです。