たぬきのちらうら

適当に、好きなことを書く。おもにシャニマス

日韓アイドル事情から読み解くSHHis

3rdライブのSHHisのパフォーマンス!最高でしたね!

 

自分は運よく福岡両日現地のチケットを握り、初披露を現地の圧倒的音圧とともに浴びることができました。次がSHHisのパフォーマンスです!となったとき自分も含め多くのプロデューサーが応援の拍手をしました。

 

「新人だしね、ガンバレ!」

 

それくらいの気持ちでしたが、圧巻のパフォーマンスに打ちのめされました。ダンスもかっこいいし、動いても動いても声はぶれないし、ラスサビ前の指パッチンからのShiiiiiiii

もう、声出しNGなのに思わず「ひっ」と息をのみました。

OH MY GODは正直好きな曲調ではなかったのですが現地で聞けば一気に魅了されました。

 

 

今回、そんなSHHisと楽曲についてちょっと変わった角度から見てみたいと思います。

 

 

先に断っておきますが、僕はKPOPアイドルに詳しくありません。そもそもアイマス以外のアイドルは全然知りません。にわか人間が精一杯調べて得た情報で語りますので、そっち方面で詳しい方がいれば、僕の記事などたたき台にしてもっと専門的なことを述べてもらった方が面白くなるでしょう。

 

 

1.OH MY GODがK-POPっぽい

 

これは、発表当時からいろいろな方が言っていたことです。僕なんぞはKPOPに疎いので「はえー、そうなんすねぇ」と聞いていたのですが、調べたところによると、この曲はいわゆるTRAPというジャンルらしく、KPOPではこのジャンルの曲が多いそうです。(TRAP自体は90年代のアメリカ発祥のEDMらしいです)

実際、OMGの作曲をしているEunsol(1008)さんはTWICEの、作詞の光勝(Co-sho)さんはTWICEやBLACK PINKなどKPOPアイドルの楽曲の日本語作詞を手掛けている本物のKPOP畑の方でした。

つまり、意図的にKPOPの人選でこの曲は作られているのは間違いないようです。

 


www.youtube.com

これとか好きな感じでした。KPOPアイドルの皆さんってかっこいいですねぇ。OMGと似た感じもあります。なにより、キレッキレのダンスがいい。

 

 


www.youtube.com

TWICEの最新曲。いろいろ聞いた中ではこれが一番刺さりました。(完全に余談ですが)

 

 

そう言われてみると、彼女たちのライブ衣装や髪色もKPOPアイドルっぽいんですよね。BTSなど男性KPOPアイドルもそうですが、韓国では楽曲ごとに派手な髪色に染めたりすることも多いそうです。

f:id:agtor:20210602204338j:plain

美琴さんとか、そのままMVに出れそうじゃありませんか?

 

 

2.令和のKPOPアイドルの立ち位置

そもそも、僕のようにリアルアイドル業界に疎い人間にとっては「なんか最近またKPOP流行ってるなぁ」くらいの認識でした。NiziUやBTSなんかの名前をよく聞くなーって。

どうやら、今は第3次韓流ブームだそうで(第1回は冬のソナタBoAのころ、第2回は少女時代や東方神起)。2015年にTWICEが活動を始めたころから徐々に来た波がピークに達しているそうです。

そして、そんなKPOPアイドルの特徴が

「歌やダンス、パフォーマンスで見た人を魅了する」

という、技術を武器に戦うこと。

アイドル市場が小さい韓国では自然と海外に目を向ける必要があり、言語の壁を越えて人々を魅了できるダンスや歌唱力、パフォーマンスが自然と求められるようになったそうです。実際、MVを見てみてもすごいことは一目でわかります。聞いた話では、KPOPアイドルはCDリリース時こそ宣伝のためにメディア露出を増やしますが、ある程度宣伝したらまたメディアから引っ込み、ひたすらレッスンでパフォーマンスを磨くそうです。

この、パフォーマンス至上主義のアイドルの姿にあこがれて、近年は日本から韓国に渡りアイドルを目指す若い子も多いとか。有名な例でいえば、HKT48宮脇咲良なんかがそうです。(厳密には少し違うかもですが)

TWICE自体も、韓国人、日本人、台湾人からなる混成ユニット。

キャッチコピーは

【いい音楽で一度、素晴らしいパフォーマンスで二度魅了させる】と言う意味を持つ、Asia No.1最強ガールズグループTWICE。

余談ですが、近年話題のNiziUも、TWICEを手掛けた敏腕プロデューサーJ.Y.Parkが日本で立ち上げたユニットです。

 

ところで、皆さんお気づきだと思いますが、このパフォーマンス至上主義の考え方こそ、緋田美琴ですよね。

f:id:agtor:20210602205235j:plain

紹介MVでも使われた印象的なセリフ

美琴は、パフォーマンスでみんなを感動させるアイドルになりたかったけれど、「見た目がよくて、個性があって、キャラが立ってて推せる」アイドルたちに先を行かれて、10年芽が出ることなく苦しんでいたアイドルです。

 

f:id:agtor:20210602205459p:plain

10年苦しんだ美琴。彼女が花開くのはきっと、今だったんだね。

 

ルカとの決裂も、この方向性の違いが原因だと作中で語られています。美琴というアイドルもまた、現代KPOPの流れを汲んだアイドル像を目指していました。しかしそれはつい最近に日本でも認められるようになったアイドル像で、10年前の日本では特に、求められるものではありませんでした。

 

3.モーニング娘からAKBまでのJPOPアイドル

では、日本のアイドルと言えば、この2つのグループが時代を築いていたのは間違いないでしょう。90年代後半に生まれたモーニング娘は、そのデビュー時こそ本当にただの素人の女の子たちで。未成熟な彼女たちの成長の物語、シンデレラストーリーに、日本の皆がアイドルとしての魅力を感じていました。

このあたりに関しては、下記の記事が詳しいです。この項目で語る内容の半分くらいはこちらからの受け売りです。

www.sankeibiz.jp

 

ただ、モーニング娘が成長しパフォーマンス力を獲得した結果、未成熟さを失いファンが離れてしまいました。そこに、隙間を埋めるように入ってきたのが秋元康率いるAKB48。会いに行けるアイドル、とにかく数が多いメンバー。未成熟でクラスに1人はいるような可愛さの子を推していくコンセプトのAKBは見事にハマり、2000年代後半から10年以上日本のアイドル界を支配します。

 

つまり、日本人にとってのアイドルは、パフォーマンスよりも推せるかどうか。イルミネの感謝祭でもありましたよね。

f:id:agtor:20210602210309p:plain

2年目の頭のころから、シャニマスはこの問題に向き合っていました。

それも一つのアイドルの形だとは認めつつ、プロデューサーもイルミネも頑張りたい。頑張ることを認めてもらいたいと、成長する決意を固めました。

僕自身、AKBや初期モーニング娘の在り方を否定するつもりはありません。実際、ミリオンセラーを多く生み出し時代を支配したのは事実。何より、本家アイドルマスターモーニング娘から着想を得ていますし、シンデレラガールズの数戦略や総選挙、設定が生かせていませんがミリオンのシアターという舞台もAKBからの流れを汲んでいます。特にシンデレラガールズはこの売り方で大成功を収めています。身近な存在としてのアイドルや、個性一辺倒のアイドルもまた、一つの在り方です。

ただ、これは個人的な感想としてこの日本的なアイドルの在り方はあまり好きではありません。あくまで好みの問題です。だから、AKBには一切食指が動かず、シンデレラにもハマりきれなかったんだと思います。

実際、AKBが支配していた10年、JPOPはとてもつまらなかったと個人的に思います。僕はアイマスにはまるまでの10年はずっと、2000年代前半までの懐かしい曲か、ゲーム音楽しか聴いていませんでした。新しい曲たちには全然興味が持てなかったのです。最近のJPOPは同年代がコンポーザーになって作っているボカロの流れを汲んだものや、非の打ち所がないクオリティを持つヒゲダンなどいいものが多く、聞くのも楽しいですね。すみません、余談です。

 

話を戻しましょう。シャニマスは、283プロはいろいろなアイドルの在り方を認めています。ノクチルなどは、今までの何にも類似しない全く新しいアイドルだと思っています。その最後の1ピースとして追加されたのが、後期のモーニング娘や現代KPOPアイドルと同じパフォーマンス主義のSHHisなのも多様性の1つの形なのでしょう。

現代の中高生はKPOPアイドルにあこがれ、Youtubeでダンスの動画をみて踊ったり、インスタをフォローしてメイクを真似たりもしているそうなので、数年後には日本もパフォーマンス至上主義に変わっているかもしれません。

 

4.七草にちかという異質な存在

楽曲はKPOP、美琴の在り方も現代KPOPアイドル。では、七草にちかは何なのか。この結論はここでは出せません。3rdライブのパフォーマンスを見れば、にちかもまた美琴と一緒に歌やダンスで人々を魅了する八雲なみをも超える存在になることがゴールなのだとは思います。

ただ、にちかの物語はWINGを終えて始まったばかりで、彼女がどういう道筋でゴールにたどり着くかは全く分かりません。

全く分かりませんが、予測として1つKPOP周辺のお話を持ってきてみました。まぁ、こじつけ半分の与太話です。

僕が気になったのは、先ほど少し取り上げたNiziUのメンバーの1人アヤカです。これは、いつだったか日本のテレビ番組「スッキリ」を見ていた時のこと。今でもなぜか印象に残っているエピソードです。

NiziUというユニットは、そのメンバー選抜の物語からHuluなどで配信して注目を集めるという、女の子がアイドルになるスターロードの過程を見世物にするコンテンツでもありました。(このあたりはなんだか日本的ですよね)その総集編みたいなものをやっており、そこでオーディションを受けていたのがアヤカです。オーディションで一芸を披露するときアヤカは「少し変わったテニス講座」という訳の分からないパフォーマンス。


www.youtube.com

 

見たほうが早いです。7分ごろから始まります。というか、文字で説明できない・・・。このパフォーマンスを見たプロデューサーのJ.Y.Parkは彼女のスター性を評価します。最終的に「実力で判断したら不合格だが、家に帰ってもAYAKAさんが頭から離れないと思う」といい、最終オーディションを通過。1万名以上の応募者の中から8位でNiziUのメンバー入りを果たしました。

スター性、言葉にできない魅力、見る前と見たあとでその人をもっと好きになれば成功と評されたパフォーマンス。

そういうものを、にちかも持っているのではないかと、僕はずっと思っています。シナリオ上シャニPの目が曇っているので判断がつきづらいですが。にちかはにちかを取り巻く物語が、彼女自身の魅力を見るためには邪魔になっています。その物語もまたとても面白いのですが、現状カード数がすくなくにちかの魅力はとてもわかりづらい。それでも、実装初日に僕が3日連続でSSを書くことになったり。彼女を幸せにする、そのための仕事がしたいと思わせる魅力があるのは間違いありません。

 

5.おわりに

 

というわけで、SHHIsは現代KPOPの流れを汲んだ最新のアイドル像であるのではないかというのが僕の結論です。僕らのような長年アイマスを推しているアラサーPはもちろんですが、今の10代にも魅力的に思ってもらえるユニットになってくれれば。

 

ついつい、彼女たちを取り巻く物語の方に目がいき、「辛い」「しんどい」という感想が出がちかもしれませんが、彼女たちが魅せたいアイドル像や目指す姿、隠れた魅力に目を向けて、彼女たち自身を見てくれればと思います。

 

最後に、自作を宣伝して終わります。

七草にちか本人を見てね。という話です。

 

www.pixiv.net

浅倉透のGRADは純文学だったという話。

シャニマスは文学。

 

なんてことを言えば、

「まーたオタクが好きな作品を文学とか言ってさも高尚かのように語ってるよ気持ち悪!」

と、思うかもしれない。

僕自身、あんまりこういう言い方はしたくない。「Fateは文学」という言いざまが散々馬鹿にされたように、やっぱり言葉としてはあまり適切ではないのだろう。(Fateが文学かどうかは僕には論じられない。アニメとFGOしか知らないので)

ただ、浅倉透のGRADは文学だった。

それも、純文学だ。

 

よかったから、深みがあったから文学というのではオタクの妄言である。なので、何故純文学なのか。をしっかりと説明したい。

自分の話はあまりしたくないのだが、僕は4年制大学の文学部で近代文学を勉強してきた人間だ。それなりには文学作品にも触れ、論文も書いている。オタクであることに違いはないが、文学を研究した人間の視点でもあるとだけ、僕の言い分の説得力の根拠として置いておく。

とはいえ、論文のように堅苦しければ読むのも面倒なので、ライトに説明していきたいと思う。

 

 

  1. 純文学とは何か
  2. 芥川賞受賞作から見る傾向
  3. 社会と浅倉透
  4. おわりに

 

 

 

1.純文学とは何か

 

 

文学である。という話をする場合まず一番の問題として、文学とは何か。という話が出てくる。正直、これに関して画一的な定義はない。辞書の上での定義はあるが、それがすべてとも言えない。「文学である。」という語りの大きな問題の1つだ。高尚であれば文学なのか。評価されていれば文学なのか。私小説であれば文学なのか。古ければ文学なのか。定義はないし、はっきりとはしない。

例えば、源氏物語は古典文学と言われているが、ストーリーだけなぞれば光源氏のハーレムものであり、紫式部の書いた同人誌である。

近代でも、例えば武者小路実篤の作品など白樺派は、あまりに理想的現実が過ぎる。僕は実篤の作品と思想が大好きだが、当時テレビドラマがあれば、月9枠で放送してそうな物語だと思う。

文学といっても、いろいろなのだ。

では、純文学はというと、辞書の上での定義をまず見てみたい。

純文学の定義について話すとそれだけで1本の論文のようになってしまうのでここでは語らないが、簡単に一番多く言われることとして、大衆小説と比較しての純粋な芸術として指すことが多い。 

 

じゅん‐ぶんがく【純文学】

じゅん‐ぶんがく純文学】 ①広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。 ②大衆文学に対して、純粋な芸術を指向する文芸作品、殊に小説。

sakura-paris.org

 

純文学となればこうなる。

では「浅倉透のGRADは美的情操を訴える文学だったのか」と言われるとそれも違う。今回僕が純文学だと感じた一番の理由は、そこではない。結論を言おう。僕が浅倉透のGRADから感じたのは、芥川賞作品の傾向だ。

 

大衆小説と純文学という2分したカテゴリが当てはまるものとして、もっと世間的に身近なものが直木賞芥川賞である。文藝春秋菊池寛が創設した、日本で最も有名な文学賞。最もすぐれた大衆小説に直木賞を。最もすぐれた純文学に芥川賞をという形である。芥川賞は新人発掘の側面もある。また、この定義から両方を同時に受賞することはできない(そういう規定になっている)が、両方に同じ作品がノミネートされたことは過去にある。

 

その、芥川賞受賞作との比較から浅倉透のGRADを見ていきたい。

 

 

 

2.芥川賞受賞作から見る傾向

 

 

 

僕は1年前、ノクチルと村上龍芥川賞受賞作「限りなく透明に近いブルー」の比較・類似点に関しての記事を書いた。

 

agtor.hatenablog.com

 

 

天塵を読んだ時から、気になっていた傾向ではある。限りなく透明に近いブルーに関しての話は上記記事に詳しくあるため割愛するが、日本を代表する純文学の書き手とその代表作とだけ説明しておく。ざっくり芥川賞受賞作の傾向を言うと限りなく透明に近いブルーのように現代社会と私」を鮮明に切り取った作品だと思っている。

 

僕もそれほど多くの芥川賞受賞作を読んでいるわけではないのだが、近年で言うと宇佐美りんの「推し、燃ゆ」や村田沙耶香の「コンビニ人間」今村夏子の「むらさきスカートの女」などを最近読んだ。特に「推し、燃ゆ」は話題にもなったし皆さんの記憶に新しいと思う。

 

www.amazon.co.jp

 

推しがいる人生。推しに生かされている人生を書いた。まさに現代社会に生きる高校生の一人をありのままに切り取っている。そこから見える社会の問題はもちろん、現代の生き方の1つを鮮明に切り取っており、その苦悩や辛さ、推しに生かされているという生き方、アイドルを信奉する宗教的な気持ち。10年前ではまだ当てはまる言葉がなかった生き方に焦点を当てた作品だ。

こちらは直木賞ノミネートこそされてはいないが、芥川賞受賞と、本屋大賞のノミネートに入り大衆的にも受け入れられている。

 

 「コンビニ人間」もそうだ。コンビニ店員としてしか生きることができない主人公は、普通の生活を送ってきた人にとっては異質かもしれないが、世の中にこういう人は必ずいるのだと、強く訴えかけてくる力がある。実際、純文学ながらミリオンセラーとなっている。

 

私という視点から社会を描き、その社会の中で生きる(たいていはその生きづらさを描いている)姿を鮮明に切り取った作品が芥川賞受賞だ。

 

僕は、浅倉透という1人の人間が、社会の中で生きていく(息していく)ための物語をGRADに見た。それは、芥川賞受賞を読んだ時の気持ちと同じものだった。

 

 

3.社会と浅倉透

 

 

これは、GRADを読んだ人にとっては今更説明することでもないと思うが、

浅倉透のGRADで書かれていたのは、透を見る社会と透自身の認識の話だ。浅倉透は作品の内外問わず、カリスマ性・才能に秀でた人間と評価されている。透が何もしなくても、普通にしていても世間は高く評価、ちやほやしてくれる。だからこそ、透は自分が他のみんなみたいに精一杯生きていると感じられない。ドキドキしていない。生きている(息している)だけの存在だとさえ思いかけている。

アイドルを始めてからもそれは変わらずだったのだろう。

そんな中で、透が自分の在り方、生き方、息のしかたを知ったのがGRADの物語だ。ちゃんとハッピーエンドで終わるところはもしかすると大衆文学的かもしれないが。

 

f:id:agtor:20210508103943p:plain

f:id:agtor:20210508104022p:plain

透は、社会からの評価と自分の生き方をしっかりと見定めることができた

 

 

思えば、ノクチル全員のGRADが、ひいてはWINGやイベントまですべて「社会と私」なのである。

・円香は何でもそつなくこなす能力とそれを見る人たちとの認識のズレ。

・小糸は頑張っている姿を見られたくない気持ちと、その頑張りを見せることが評価される社会との狭間での悩み。

・雛菜は社会がどう思おうと雛菜であり続けるという物語。

社会(場合によってはファン)と自分という主題の下でアイドルとしての在り方を見つけるのがノクチルの物語の主軸になってる。

 

他のアイドルシナリオでは、私と仕事(主に放クラ)、私たちと私たち(ストレイ)、私と日常(イルミネ、アンティーカその他もろもろ)だったりで、社会と自分を取り上げた物語はそれほど多くないと思うし、その分わかりやすく面白い物語になっている。

 

ノクチルは全員を通して、才ある人間が社会の中で生きていく姿を描いていると思う。小糸ちゃんも頑張れば学年1位であり、アイドルとしてWINGで優勝できる。まぎれもない天才の1人(こういう場合は秀才というべきか)。努力の天才なのは間違いない。

そして、ノクチルのように持って生まれた才とともに生きてきた人間もまぎれもなく現代社会に存在する。すべての人間が頑張っているから評価されているわけではない。あなたの高校時代にも1人はいたのではないだろうか。頑張らなくても、だいたい何でもできる人や圧倒的なスッピン美人が。もしかしたら、あなた自身が才ある人間としての悩みを経験してきているかもしれない。

 

ノクチルの物語は、才ある私たちと現代社会を描いた作品、純文学だと主張したい。

 

 

4.おわりに

 

 

純文学だから高尚だとか、読めだとか、そういうことを言いたいわけではない。ノクチルを通して社会を見る面白さや、生きづらさを知って共感して、他人を思いやる気持ちを持ったり。シャニマスという世界に限らず、あなたが今生きている社会の見方を広げるものとして、ノクチルのGRADを見てもらえれば僕はうれしい。

これを機に、芥川賞受賞作に興味を持ったら是非読んでほしい。「推し、燃ゆ」はシャニマスオタクとしても本当に面白かった。芥川賞受賞作はハッピーエンドばかりではないし、エンタメ性が高いわけでもない。だけれでも、社会が見える。それが本当に面白いから。

浅倉透という命を食べて、あなたのドキドキがより強くなってほしい。

生きることを、もっと、楽しめますように。

 

f:id:agtor:20210508111944p:plain


 

 

ーーードキドキプロバイダ、浅倉透。無限のトキメキ、定額制でお届けします。

何故ゲーマーは軽々しく「ガイジ」という言葉をつかえるのか。

「ガイジかよあいつ」
「ガイジムーブかましたったわスマソ」

だの。

軽々しく、なんでもない侮蔑の言葉としてガイジという。
そこが本当に理解できないし、相容れない。
もちろん、もはやネットスラングと化した一種の蔑称であり、
障がい児を貶めるつもりで使っている人が少ないのは理解している。

それでもやっぱり、理解できない。

別に僕は育ちがいいわけでもない。
ただ普通に小学校のころ、道徳の授業やクラスにいた知的障害を持つ子との交流を経て、
障がい者を差別してはいけない。」
という教育を受け、知見を得た。
大人になってからは、興味の一環で、
特に知的障害を持つ人たちとかかわる仕事をしている人に
いくつかのお話を聞かせていただいた。

そもそも、ゲームの向こうにいる人間が、
本当に障害を持つ可能性だってあるのだ。
後天的に身体障害者になってしまった方もいるかもしれない。
そういう想像力を持っていれば、
ガイジなんて言葉、軽々しく使えないはずだと思っている。

僕がゲーマーでありながらゲーマーとあまり仲良くなれないのには、
そういう想像力の足りない人間が嫌いだからというのがあると思う。





「は?何言ってんだこいつ。俺をバカにするのか?」
と、怒らせてしまったなら申し訳ない。
一個人の意見である。
頭のおかしい人間の文章だと思って、
ブラウザバックしていただくのがいいと思う。

「自分の周りにはそんな人いないし楽しいけどなー」
と思われた方。
とても素敵なゲームライフを送っていることだと思う。
どうか、今のコミュニティを大切にしてほしい。




半生をネットの世界とオンラインゲームで過ごしてきた僕は、
様々なゲームでいろいろな人と交流してきた。
その中には親のように僕をかわいがってくれた人から、
もう何年も付き合いのある友人まで。
いい人にもたくさん出会ってきた。
幸い、今FF14を一緒にプレイしている友人たちは、
僕よりも人格のできた人ばかりで、
良識ある社会人としてゲームを楽しんでいる。
一緒にゲームをしていて楽しいと思える人たちがいることは、
とても恵まれた環境であるとも思う。

だが、親しんだコミュニティを出れば、
なかなか受け入れがたい性格をしている人とも良く出会う。
人格に問題があるのではと疑いたくなるくらい、
言葉が汚かったり、他人に対する態度が横柄だったり。
そういう人ばかりではないというのは理解しているが、
リアルの世界で人間として出会う人たちなら、
到底簡単には見せないような性格がすぐににじみ出てくる。
プレイミスを激しく責め立てたり、
自分より下手なプレイヤーがいれば、下僕のように扱っていいと思っている。
ゲームの腕前=偉さだとでもはき違えているのか、
高難易度コンテンツや対人FPSなどでは特に、
そういった人が目立ってくるように思う。

そして、その人たちは必ずと言っていいほど、
「ガイジ」
という言葉を使うのである。


結局のところ、想像力の問題だと僕は思っている。
リアルなら目の前に人がいるからこそ、
軽々しく厳しい言葉はつかえない。
ただ、顔が見えない相手、声しか知らない相手になら、
横柄な態度も取りやすいのだろう。
つまるところ、同じ人間が画面の向こうにいると、
考えられない人が、少なくないのだと。


FF14がいまだにギスギスオンラインだと言われたりするのも、
プレイヤー側の想像力不足による、
配慮のない言葉遣いが原因なんじゃないだろうか。

ゲームは本来楽しいもので、
素晴らしい楽しみ方をしている人もたくさんいる。
何か、トラブルが起こるのであれば、
ほとんどの場合、人に起因しているんだから。



なんて、愚痴を書いたのは、
自戒の意味を込めてなのと、
FF14の最新レイドにて散々な目にあったからである。
もうFF14なんてやりたくないなぁと心に傷を負ったチームメンバーもいた。
なんともなんとも。

目の前のプレイヤーすべてが、人間である。
そんな当たり前を今一度、しっかり胸に刻み付けていきたい。

少なくとも、軽々しくガイジなんて言葉を使うのは
辞めたほうがいいのではないかと、僕は思うのです。

透明だった僕たちは、限りなく透明に近いブルーになる。~シャニマスに対する書誌学的アプローチ~

薄桃色を超えるシナリオはそう出てこないだろう。

あの感動的なストーリーを見てから4ヶ月。
たった4ヶ月で、近いレベルの衝撃を受けるシナリオが投下された。
もちろん、その間のシナリオもみんなそれぞれいいのだが、
天塵の衝撃たるや。
一度見て涙を流し、二度見てまた泣き、
委員長の配信で三度目の涙。
そのあと委員長の配信2周目と、普通に読み返したのを1回。
計5回、天塵のシナリオを読んだ。

毎日10回以上「天塵」で検索をかけて他人の感想を読み、
絶賛する意見には大いに賛同し、
否定的な感想もとても面白い視点だと楽しませてもらった。

これだけ天塵を読み、ノクチルのことを考えていて、
僕は一つ、思い出した作品があった。

それが、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」だ。
村上春樹と並び称される二大村上のドラゴンの方。
デビュー作であるこの作品で芥川賞を受賞し鮮烈デビューした人気作家だ。





うん、タイトルからしてなんかもう、ノクチルっぽいよね。
透明感のあるユニットで、ユニットカラーもブルーだし。
最初に発表されたとき、結び付けた人も多いんじゃないかな。

それはそれとして、中身の話をしよう。
簡単にあらすじを紹介すると、
『米軍基地のある町福生市(ふっさし)にすむ主人公リュウは、
米軍から仕入れたドラッグを売りさばき、
女を集めては米軍の開く薬物パーティに送り出し、
薬・暴力・女の生活を送っている...』


どこがノクチルと関係あんねん!


心の中の横山奈緒が盛大な突っ込みを入れてきました。

いやまぁ、話は最後まで聞いてほしい。
そもそもであるが、文学作品を下地に作られたユニットというのは前例がある。
皆さんご存知、ストレイライトだ。
詳細は下記記事にもまとめている。

冬優子とニューロマンサー

こちらだって、電子ドラッグ、暴力、女、サイバーパンクの世界である。
シャニマスの新ユニットは文学作品に由来する。
というのは、普通に考えられることだ。

さて、ここからは限りなく透明に近いブルーのネタバレを含む。
ネタバレがあったからと言ってこの作品はストーリー重視ではないためあまり差し支えないが、
どうしても初見で読みたい方は、ブラウザバックをお勧めする。



◆社会の色に染まることができない透明な

限りなく透明に近いブルーは、簡単に言うと、
社会になじむことのできないまま大人になりかけている主人公たちの
自らを燃やしながら生きる様を描いた作品だ。
最後に黒い鳥がおぞましく描写されるのは、
現代社会のメタファーとして描かれているというのは、
芥川賞受賞時の書評でも語られた定説であり間違いないであろう。
他にも、

「主人公のリュウとその恋人リリーは、雨の中車を飛ばしてたどり着いた街で、机が規則正しく並べられた学校に得も言われぬ恐怖感を抱き、帰りには車をスリップさせぶつけて、リリーは殺してくれと叫ぶ。」

「主人公の友人、ヨシヤマとその彼女ケイはヨシヤマの母の葬式のために富山に行って以降、情緒不安定になり関係性が悪化する。」

「仲間内でラリって朝を迎えたら警察にパクられて、解放された帰りに日比谷公会堂の野外フェスに参加。タダで乗り込もうとしたカズオはガードマンにバッドで殴られたので仕返しにガードマンを集団リンチ。モコは裸同然でステージ前で踊り狂う。帰りの電車では社内でリバースし、普通の乗客の女性に堂々と襲い掛かる。」

改めて書くとマジで薬でもやってんのか。ってくらい不安定だな。
やってるんだけど。

とにかく、家族・家庭・警察・学校などなど。
社会性を感じるものに触れるたびに彼らは不安定になる。
社会に染まることができない少年少女たちなのだ。


いや・・・まぁ、過激がすぎるんですけど・・・。
天塵で見たノクチルと共通するところを感じないだろうか。

随所で語られている通り、彼女たちはロックな生き様を見せた。
初仕事の歌番組でいつも通りの自分たちでいることで干されるし、
誰も見ていない海辺の花火大会のライブで、
「いいんじゃない、うちらがよければ」
である。
社会、特にアイドル業界の色に一切染まることなく、
幼馴染4人の自然体であり続けている。
透と雛菜のアウトローっぷりは、個別シナリオでも十分に感じられるほどだ。



世間やアイドル業界の彼女たちへの評価もこれである。
現実のTwitterですら、
「アイドルを舐めている」
アイマスでやることではない」
と批判される始末。
いわゆる世間一般、社会に馴染まない存在だ。

結局、天塵のシナリオ内で、彼女たちの世間的評価が変わることはない。
ただ、プロデューサーはそんな彼女たちの
透明なままの姿にこそ、輝きを見出した。




まだプロデューサー自身が上手く言葉にできていないし、
どうやって世間に彼女たちを透明なまま見つけてもらうか。
それは、今後のプロデューサーの大きな課題だ。
自分がその立場だったらあまりの難易度に吐きそうである。

まだプロデューサー以外は彼女たちの魅力を見つけていない。

一方ノクチルの4人は、社会を恐れてはいない。
小糸と円香は恐れているのは恐れているかもしれないが、
4人でいることを選んでいるのだから、つまるところ同じだろう。
幼馴染と一緒にいるためにアイドルになる。
その選択自体が、アイドル業界的に言えば狂っているといわれるのだから。

限りなく透明に近いブルーの登場人物たちは、
とてもじゃないが輝いているようには見えない。
ただ、薬に溺れただれた生活を送りながら、今その瞬間を楽しんでいる。
自分たちにだけは、輝いている日々を送っていると思っているのだ。
結局、彼らは作中で更生することもなく、
中途半端な形で物語は終わる。
作品の最後で主人公のリュウは、
黒い鳥に追われ逃げ惑う中、ガラスの破片に限りなく透明に近いブルーを見た。
その色こそ、救いの色だと感じた。
そんな色になりたい、この色を多くの人に見せてあげたいと決意し、物語は幕を閉じる。
モデルが村上龍本人なので、
のちに作家となり、この本を書いたという未来がわかる。
リュウは、限りなく透明に近いブルーを移すガラス。
作家となり、世間にこの色を見せる生き方を見つけた。
当時から賛否両論だったこの作品だが、
同じように社会に息苦しさを感じていた人たちにの救いとなったのだろう。
おそらく、残りの登場人物は透明なまま死んでしまったか、
黒に染まって社会に溶けていったのだ。


僕は、ノクチルがたどり着く色もまたこの色。
限りなく透明に近いブルーだと思っている。
今の話を踏まえてノクチルのロゴを見てほしい。




Oの文字に見えるのは、水面から深海を表した海である。
だが同時に、丸いガラス片が青い光を移しているようにも見えないだろうか。
Oの中に見える色こそ、限りなく透明に近いブルー
透明だった僕たちがアイドルとしてたどり着く色であり、
この色を見せることが、ノクチルのアイドルとしての仕事となる。
今の彼女たちが持つ透明な、青春の煌めきのような姿を、
見ているファンの下へ、色を伴って届けるのだ。

その姿に至るのは、きっと1年後。
ストレイライトがWEBDのシナリオで一つの完成を迎えたように。
ノクチルとプロデューサーもまた、あるべき姿を見つけられるはずだ。




ex1)重なるモチーフたち
ここからは、本編に入れられなかった情報をつらつら書き綴っていく。
天塵のシナリオと限りなく透明に近いブルーには、
共通するモチーフがある。
その一つが、車と海だ。
『リリー、車でドライブしたことあるだろう。何時間かかけて海とか火山に行くんだ。』P70L7
この話のあと、リュウとその彼女リリーは車でドライブに行く。
天気は大雨、たどり着いた場所は、トマト畑。
『「あれは何なの。」
「トマトだろう。トマトには見えないなあ」
「まるで海だわ、行ったことのない外国の海よ。何か浮いてるのよ。その海に」』P75L12

薬でもキメてるのかって会話ですがキメてるので…。

たどり着いたトマト畑を海だと思い込み、リリーは泳ぎだします。
『あそこは本当に海なのかもしれない。リリーは発光する深海魚だ。』P76L9

いや、薬でm
雷に照らされるリリーを発光する深海魚と見ているのですが、




ここ、めっちゃシンクロ。
結局リュウたちは本物の海にたどり着くこともありませんでしたが、
ノクチルの4人は海にたどり着いた。
同じ結末となることはない。かもしれない。



他にも、気になるモチーフがある。
「ドアーズ」というアメリカのロックバンドだ。
限りなく透明に近いブルーの中で2,3回このバンドのレコードがかけられる。
中でも、彼らの曲の一つ、「水晶の舟」は、
主人公のリュウがフルートで吹いてくれと、仲間から頼まれる曲として出てくるのだ。
ところで、ドアーズのデビューアルバムは「ハートに火をつけて」
どこかで聞いたことがあるのではないだろうか。
そう、「は~と♡に火をつけて 月岡恋鐘」pSRである。

これに関しても別記事で詳しく書いているので見てほしい。

をとめ大学シャニマス学部アンティーカ学科月岡恋鐘専攻名誉教授Pに「は~と♡に火をつけて 月岡恋鐘」を解説してもらった。【ネタバレ有】

すでに一度、シャニマス内でモチーフとされているロックバンドだ。
この「ハートに火をつけて」というアルバムには
表題作である「ハートに火をつけて」という楽曲があり、これが彼らの代表曲の一つ。
人気が高くのちにシングルカットして発売されたのだが、
その際にB面に収録されたのが「水晶の舟」である。
水晶というのもノクチルのイメージに近い感じがするが、
このあたりの関連性はいずれ見えてくるのかもしれない。



ex2)鮮明な色は悪ではない
さて、ハートに火をつけてのことを語った以上、
もう一つ触れておきたいことがある。
ノクチルとアンティーカについてである。
奇しくも、ドアーズのCDという存在で、A面B面になったこの2ユニット。
天塵のシナリオの中でも、アンティーカについて言及されている。



アンティーカはすでにテレビでの露出も多く、
一部では283プロで一番売れているのではと推測されるほど。
そんな彼女たちはのイメージカラーは鮮明な紫。
しかもその色は、彼女たち自身で決めた紫だ。
最初のイベントコミュを見てもらえればわかるが、
ゴシックなコンセプトは、アンティーカの5人で選んだもの。
今でこそストーリーストーリーのように、素のままのアンティーカも
世間的に受け入れられて評価されているが、
最初はアイドルとしてデビューするための外付けの武器を身に纏ったのだ。
智代子のチョコアイドルに近い。
ある意味、テレビ受けやアイドルとして認知されることなども
計算した社会に受け入れられるための紫である。
そして、その紫は多くの人々に受け入れられ、売れている。
そんなアンティーカをノクチルの対極としてシナリオ内に出すのは
とても合理的な位置づけだと思う。

ただ、アイドルマスターシャイニーカラーズにおいては
色がついていることは悪ではないし、透明であることも悪ではない。
悪があるとすれば、黒く染まってしまうことだろう。
鮮明な色付きは、魅力となる。
シャイノグラフフィで歌われている通り、
「透明から鮮明に」なることは、進化といえる。
ノクチルは、今はまだ透明なだけだ。



ex3)村上龍にとっての作家

ちなみに、少し話はそれるが、作者の村上龍は自著「13歳のハローワーク」にて
作家という職業をこう紹介している。

『13歳から「作家になりたいんですが」と相談を受けたら、「作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ」とアドバイスすべきだろう。医師から作家になった人、教師から作家になった人、新聞記者から作家になった人、編集者から作家になった人、官僚から作家になった人、政治家から作家になった人、科学者から作家になった人、経営者から作家になった人、元犯罪者で服役の後で作家になった人、ギャンブラーから作家になった人、風俗嬢から作家になった人など、「作家への道」は作家の数だけバラエティがあるが、作家から政治家になった人がわずかにいるだけで、その逆はほとんどない。つまり作家から医師や教師になる人はほとんどいない。それは、作家が「一度なったらやめられないおいしい仕事」だからではなく、ほかに転身できない「最後の仕事」だからだ。服役囚でも、入院患者でも、死刑囚でも、亡命者でも、犯罪者でも、引きこもりでも、ホームレスでもできる仕事は作家しかない。作家の条件とはただ1つ、社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。伝える必要と価値のある情報を持っていて、もう残された生き方は作家しかない、そう思ったときに、作家になればいい。』-13歳のハローワークより

どうだろう。
これまでの話を踏まえてみると
ノクチルにとってのアイドルも近い立ち位置にあると思えなくもない。
彼女たちは、彼女たちでいるためにアイドルを始めた。
だが、そんな彼女たちだからこそ、
ファンや現代社会に突き付けられるメッセージを持っているのではないだろうか。
アイドルだって、アーティスト、作家なのだから。


おわりに

さて、これら共通点を偶然のこじつけと見るか、論理的ととらえるか。
それはあなた次第。
つまるところ、書誌学的アプローチが正解であるかは、
作者のみぞ知るところである。




参考文献
限りなく透明に近いブルー村上龍講談社文庫
13歳のハローワーク村上龍幻冬舎
ニューロマンサーウィリアムギブスンーハヤカワ文庫
アイドルマスターシャイニーカラーズ』-バンダイナムコエンターテインメント

だから僕はシャニマスにドハマりし続けている。~コミュ・キャラ編~

シャニマスはやることがない」


なんて言っている人がいたら、
是非何を楽しめるか知ってほしい。
2周年で始めた。Vの者がやってるから始めた。
そんな人たちが、魅力に気付かずに離れていくなんてもったいない。
時系列に追えって圧力がウザイ?
グレフェスはクソゲー
シャニマスは課金ゲー?
本当にそう?

グレフェス上位勢はみんなクソゲーって言ってるよ?」

じゃあ、なんであの人たちは必死になって、
毎シーズングレ7に残留してるの?
そんなの、ハマってるからに決まってる。
そこに、やる価値があるからやっているんだ。

シャニマスは、実は近年のゲームの中でも
かなり優れた作品だと、僕は思っている。
それを知ってほしい。
その気持ちだけで書きなぐった記事です。

まずは、今更ながらコミュのことを。
育成やグレフェスの魅力は、別の機会に。


今日のお題:コミュがいい


それはもう、言うまでもないことだ。
ただ、なんとなく面白いから読むよりも、
何故面白いのか知ったほうが、より楽しめるんじゃないかなと。
あとは、時系列順に読むことにも、こだわらなくていい。
それも説明したいと思ったので、書きなぐる。
最新のコミュを例にとって、
自分がどうハマってるか話そう。


くもりガラスの銀曜日を読んだ。





あまりにも情緒の塊かつ、
ただただイルミネのたどったなんでもない日常を描いただけ。
それだけのコミュにここまで感動させられたのだ。
以来、銀曜日エゴサ?し続け感想を読み、
ここが素晴らしい、ここがいいという意見に画面の向こうから一人うなづく。
銀曜日関連コミュを読み漁って理解を深め、
眠れない夜は銀曜日のことを考えている。
つい最近話題になった「薄桃色にこんがらがって」だって、
3日に1回は読み返して、そのたびにボロボロ泣いた。





コミュの中身に関しては、他の人が書いている記事を読んでくれ。
ちなみに僕はイルミネPでもアルストPでもない。

どのユニットのコミュも、どのキャラの個別シナリオも平等に好きだ。
果穂のGRADなんかは放クラPだからこそのよさもあったけど。

閑話休題
何故、ここまでシャニマスのキャラやコミュに惹かれるのか。
ライターがすごいから。
だけじゃ、抽象的過ぎて答えにならない。
なので、ちょっと論理的に(自分の中では…)説明したいと思う。


・ジグソーパズルのピースを嵌めていくシナリオ


とにかく、これらコミュのよさを形作ってるのは、
シャニマスのアイドルがデビューしてから積み上げてきた時間と、
キャラ一人ひとりが持つ人生だ。
キャラの人生ってなんだよとなるなら、
設定資料と言い換えるとわかりやすいと思う。
ネタバレを含まずに例示すると
例えば、「薄桃色にこんがらがって」
読んでいるときにこのような気持ちが浮かぶ。
「桑山千雪の新しい一面が見れた。」
でも実はそれは新しい一面ではなく、
これまで書かれてきた千雪をよーく見ている人は、
納得のいく、表に出ていなかっただけの一面、既知と感じるのだ。

話題になった「チエルアルコは流星の」のめぐるもそう。
「めぐるってこんな子だったんだ」
と多くのPが驚いた中で、
「めぐるはそういうところ確かにある」
と、過去のコミュのさりげない部分で気づいていたPがいた。
実際、WING編や1枚目のSSRで書かれているのだから、
自分はそれに気づいたとき思わず膝を打った。

シャニマスはおそらく、とてもとても分厚い設定資料集がある。
それはもう、生まれたころから育った環境。
幼少期の思い出や、人格形成に強く影響を与えた雑誌まで。
どのような人生を歩んできて、この性格になったのか。
そこを、緻密に緻密に作り上げているのだろう。
だから、キャラの行動・言動・心情に新しい一面を感じても、
その子のもともと持っている一面として受け取れる。
知れば知るほど、発見があり、
その新しい一面は、決して矛盾した性格ではないのである。
近年のソシャゲだけでなく、アニメやマンガでも、
ここまで軸のしっかりとしたキャラクターが書かれている作品はそうないのではないだろうか。
たいていは、物語の都合で性格と会わない行動を取ったり。
時を経ることで性格が破綻するものである。
その軸がぶれない書き方ができている。
そこが、シャニマスの強みであり、魅力。
コミュに深みを与えているエッセンスである。

もともと持つキャラクター・性格を踏まえたうえで、
様々な出来事にどう向き合っていくかがコミュとなる。
まさに、「生きていることは物語じゃない」と言わんばかりに、
このキャラクターたちが生きているさまに
面白さや感動を受け取ることができるつくりなのだ。
物語の都合にキャラクターを合わせない。
そうしてキャラが出来事に向き合うことで生まれた物語は、
いわばキャラクターという大きなジグソーパズルに、
鮮やかなピースを嵌めていく作業ににている。
制作サイドは最初から完成図を用意していて、
僕らはピースが嵌まるごとにキャラクターを知っていくことができる。
完成していくパズルの絵自体も綺麗だし、
パズルを嵌める(物語を読む)過程も楽しいのだ。
まだ見えない絵柄を想像することすらも楽しい。
むしろ、完成しないからこそ楽しいとすらいえる。
くもりガラスの向こう側のよう。

ここが、シャニマスのコミュの根幹にあるものだと、僕は思う。

この作り方にはもう一ついいところがある。
それは時系列順に見ることを必須としないこと。
実は、どんな順番に見ても楽しめるのだ。
よく
「薄桃色にこんがらがってを初心者に勧めるな」
という意見を耳にするが、僕はそう思はない。
確かに、時系列順に追うのが楽しみやすいとは思うが、
「薄桃色にこんがらがって」を読んでから、その過去にあった話として
「満開・アルストロメリア流幸福論」や「アルストロメリア感謝祭」
を見てみればどうだろう。
「薄桃色にこんがらがって」という試練でどうして
あの子たちはあれだけ心を悩ませたのか。
その解を過去コミュを見て知ることもまた、面白いと思うからだ。
そこで答えを得たうえで、もう一度「薄桃色にこんがらがって」を見れば
また新たな発見があって二度楽しめる。

そもそも、すべてのキャラにブレがないのだから、
時系列をバラバラにしたって、その子の一面を見る順番が変わるだけ。

まるで、それを暗示したかのようなコミュが
「くもりガラスの銀曜日」でもあった。
このコミュは、イルミネがこれまでの2年間で経験してきた時間を、
バラバラにして組み込んでいる。
初見では時間軸がわからないのだが、
後から整理して時間軸順を知ってもいいし、
そもそも、知らなくても楽しめる。
関連するコミュをあとからよむことで
「このコミュが、銀曜日のアレにつながっているのか。」
と、楽しむこともできる。
まるで、最近よく言われる「時系列順に読め」という風潮に
ライター自身が「好きに楽しめ」と伝えてきたかのようだった。

角からパズルを嵌めるのがセオリーではあるのだろうが、
別に真ん中の絵から作っても構わない。
特別綺麗な青色の部分から作り始めて、
そこが空なのか、海なのか、湖なのかを知ったとき
その瞬間しか味わうことができない感動を得られるのだから。

シャニマスのライターが信じられる限り、
完成図は変わらない。
それなら、どんな順番で読んだって大丈夫だ。


ライターは、僕らにコミュの楽しみ方すら暗示的に伝えてくれている。
そして、これまで積み上げてきたコミュの数も相当だ。
薄桃色なら僕は一度読み返すだけで1時間はかかる。
余暇の時間を多くの趣味で埋め尽くす現代人には、
むしろ多すぎるくらいのテキストの質と量。
これがあるのだから、じっくり見てみれば、やることがないと感じることなんて。
少なくとも、僕にはない。



ノクチルの強めの幻覚が見えたので文章にしてみた。

「ノクチル(noctchilll)」


浅倉透、樋口円香、福丸小糸、市川雛菜の幼馴染4人ユニット。


東京から船で10時間、飛行機で1時間。

観光客がたまに来る程度の離島、波島で育った4人。

透、円香、小糸の3人は島で産まれ島で育ち、

島の自然に存分に触れて育ってきた。

産まれたときからずっと島にいる彼女たちにとって、

娯楽は自然とのふれあいと、大人たちと一緒に見るテレビ。

幸い東京都内である波島では地上波の番組も多く見ることができ、

歌番組を見てその真似をすることも彼女たちの楽しみの一つだった。


小糸だけ1つ学年が違うものの、

同年代の子どもは島ではこの3人のみ。

彼女たちの上の世代の子は4つ以上離れていたことから

必然的に3人で過ごすことが多かった。


彼女たちの「いつも通り」が大きく変わったのは、透と円香が4年生、

小学校高学年になった年の春。

横浜から、「なみのおと留学生」として、雛菜がやってきてからだ。


雛菜は良くも悪くも、マイペースだった。

都会で生活するには、自分というものを強く持ちすぎていたとも言える。

自分のしたいこと、好きなことばかりを優先し、

周囲にはなじまず、ひとりで楽しそうにしている。

本人は一切気にしていなかったが、学校ではハブられていた。

両親は共働きで雛菜に構うことがあまりできず、

そんな状況を学校の先生から聞いて、大きく動揺した。

自分たちは子育てを失敗したのでは、この先この子を上手く育てられるのか。

そう悩み続けて至った結論が、「なみのおと留学制度」だった。

波島にいる里親に子どもを預け、自然の中でノビノビと育てる制度。

試しに雛菜を島に連れて行ったところ、すごく楽しそうに遊んでおり、

里親とも上手くやれそうだったので、送り出すことにした。

それが、雛菜がこの島に転校してきた経緯である。


もともと3人でずっと過ごしてきた中に、

雛菜は驚くほどすんなりと受け入れられた。

都会の子どもたちをそれほどよく知らない島の3人には、

社会に馴染まない雛菜のマイペースさも、ただの個性と受け入れられた。

3人とも、どちらかというと流される方だったというのもある。

海遊びは低学年がやることと言われ海から離れ、

退屈していた3人を、雛菜が見事に引っ張った。


4人をつないだのは、歌。

テレビを見て、アイドルが歌う姿を見様見真似で演じる。

それが、ちょうどそのころの島の3人のブームだった。

雛菜もまた歌うことが好きで、

「じゃあ、雛菜たち4人で歌おうよ!」

と、全員を巻き込んでアイドルもどきの活動を島で始めたのだ。

観客は保護者、伴奏は小学校の先生。

学習発表会などで披露される彼女たちの歌は島では評判になった。

実際、歌唱力という面ではセンスが光る4人だったのだが、

あいにく、それに気付ける人は島にはいない。

透と円香が中学3年生になり、受験勉強を始めるまで、

4人の小さなアイドル活動は続いていった。

控えめな性格の年長組を、

マイペースな雛菜が引っ張り、しっかり者の小糸が後ろから押す。

一見チグハグな4人はそれで上手くいく。

透と円香も、このころは笑顔が多かった。

最初は歌うだけだった4人だが、

透の振りコピを見た雛菜が

「楽しそう!皆でダンスもやっちゃおう!」

と、はしゃぎだし、振付までしっかり付けて歌うように。

休み時間に歌い、踊る。

そうやって磨かれた彼女たちのアイドルとしての能力は、

283プロという舞台で見事開花するのだが、それはまだ先のお話。


ただ、透と円香の中学校卒業で、4人の時間は終わりを迎える。

島にある学校は小中一貫で、高校はない。

ここで育った子どもは全員、15歳で島を出るのだ。

受験勉強があったこともあり、4人で遊ぶ時間は少しずつ減り、

距離が開いた年長組と年少組。

それでも、卒業式のときには小糸と雛菜は号泣し、

「来年には絶対、会いに行くから!」

そういって、2人を送り出した。


透と円香は同じ高校へ進学した。

慣れない1人暮らし、慣れない都会。

教室に40人いるという授業すら初めて。

雛菜を除けば、周りにいる子供は産まれたときから友達だったのだ。

人間関係というものを初めて難しく感じた2人は、

そつなくこなしつつも、少しずつ疲れていたのは事実だ。

「「こんなとき、雛菜がいてくれればなぁ」」

そう想ったことは、一度や二度ではない。

透も円香も、別にコミュニケーションが苦手なわけではない。

だけれども、東京の高校生というのは怖いもので

表に出ないギスギスした雰囲気というのがとても強い。

高校が始まって2ヶ月経って登校しなくなったクラスメートは、

どうやら知らないうちにいじめを受けていたらしい。

そういうものとは無縁だった2人も、息苦しさだけは感じていた。

天気の悪い日に、崖から飛び込んだ海のよう。

深く潜ったあと、一気に海面に上がったのに、

空の明かりも十分に感じられないあの瞬間のような。

灰色の空ばかり見上げる日々が続いていた。


その日々を破ったのもまた、雛菜だった。

円香と一緒に寮に帰ろうとしていた透の前に、

聴きなれた騒がしい声が響いた。

「透先輩!円香先輩!雛菜たちも来たよ!」

小糸と二人で同じ高校に来たのだ。


その手に一枚のチラシをもって。

「雛菜、面白いもの見つけちゃった~。」

そう言って、再会を喜ぶまもなく、透の前にチラシを差し出した。

「283プロ、アイドル発掘オーディション?」

透が読み上げた声に雛菜はうなずいた。

「そう!雛菜たちなら、アイドル、なれるんじゃないかな!みんなでまた歌って踊ろうよ!」

簡単に言ってのける雛菜は、いつもどおりのマイペースさだ。

「雛菜ちゃん…流石にこれは無理なんじゃないかなぁ…」

小糸は冷静に、少し弱気に自分たちを分析する。

「アイドルって…ガラじゃない。」

小糸に同意したのは、成り行きを黙ってみていた円香だ。

自然、3人の視線は透に向けられた。

透は少しだけ悩んだが、にやりと笑って答えた。

「うん、やってみないと、わからないんじゃないかな。」

こういう、突拍子もないことを持ってくるのは雛菜で、

それを始めてしまうのは、いつも透だった。

そうなると、この4人は止まらない。

結局、いつも周りを巻き込んで楽しいことへと突き進む。

東京に来てから感じていた閉塞感が一気に晴れるのを透は確かに感じた。

それは、円香も同じ気持ちだった。

4人なら、きっと。

空に虹だってかけられると信じて。


冬優子とニューロマンサー

ニューロマンサーというSF小説をご存じだろうか。





優秀なシャニP諸君は当然すでに知っていることと思うが、
われらがアイドルユニット「ストレイライト」
の原典となる作品である。
ウィリアムギブスンが1980年代に発表したこの作品は、
のちにSF界隈にサイバーパンクというジャンルを流行らせた歴史の転換点。
映画「マトリックス」も実は
この作品を映像化しようとしてとん挫したものから
生まれた映画と言われている。


ストレイライトというユニットが発表されたとき、
何人かの聡明なPたちは直ちに
ニューロマンサーの中にある「迷光仕掛け(ストレイライトラン)」という
章のタイトルに結び付けた。
実際、ストレイライトの衣装が「ネオンライトロマンサー」であったり、
あからさまにニューロマンサーを基にしている。


なんて、知ったかぶりで語ってはいるが、
たぬきもつい先日読了したばかり。
そもそもハヤカワ書房の背の高い本は10冊も持っていないような
非常にライトなSF読みだ。
そして、このニューロマンサーを読むのにも3か月はかかった。
しおりにしていたのがサマパのチケットなのだから、
そのときから読み続けていたことになる。

なにせ、あまりにも説明不足で難解。
多くのシャニP、ストレイライトPが読もうと挑戦して
挫折したであろうことは想像に難くない。
そもそも、読み終えた今でも全体像ははっきりとわからないし、
読んでる途中解説を当たろうにも
「わけがわからないと思うがわけのわからないまま読め」
とぶん投げられる始末である。

と、まあ前置きが長くなったが、今回はつまり
難解なニューロマンサーをなんとか読み終えたので、
ストレイライト、特に冬優子とのかかわりについて書いていきたい。


ニューロマンサーのあらすじ

かなり難解かつ複雑なので、
要所要所だけつまんで話す。
主人公のケイスはいわゆる天才ハッカー
ホサカというデッキ(パソコンのようなもの)を使い
センスネット(今でいうインターネット)に潜り
様々なハッキング行為を繰り返していた。
だが、タブーを犯してハッキングに使う神経を焼き切られ、
自堕落に薬漬けになり、チバ(本当に千葉県)でくすぶっていた。

このセンスネットはマトリックスの世界や
攻殻機動隊の世界のような感じ。
精神丸ごとダイブすることができる。
そんでもって描写が極端に少ないから、
読んでいる方までここが現実なのかセンスネット内なのかわからなくなる。

ケイスはアーミテジという人間にハッキング能力の回復と引き換えに
とある企業のアイス(プロテクト)を破るハッキング依頼を受ける。
護衛である女サムライ、モリィとともに
任務の遂行を目指す。
その中で、アーミテジの正体、依頼の本当の目的などなど。
物語の革新に迫っていく。



冬優子と冬寂(ウィンターミュート)

ここからはネタバレだ。
ケイスに依頼をしたアーミテジを裏で操っているのが
冬寂(ウィンターミュート)というAIである。
ウィンターミュートはハッキング対象である
テスィエ=アシュプールという企業の持つAI。
この世界ではAIはある程度以上の知能に成長した時点で
自然に消滅するようになっている。
成長したAIが持つ力を恐れての抑止力のようなものだ。
そこで、2つの消滅するギリギリのAIを作り、
のちに合体させることで限界点を突破したAIを作るという目的のため
冬寂は今回のハッキングを依頼した。
テスィエ=アシュプールが存在する場所が、
ストレイライトという、衛星軌道上のコロニー。
ストレイライトにおいてハッキングを仕掛ける今回の仕事を
ストレイライトランと呼ぶ。

ウィンターミュートが最終的に統合を目指す片割れのAIが
本書のタイトル「ニューロマンサー」である。
ウィンターミュートは人格を持たず、
内からの衝動にかられて統合を目指す。
一方ニューロマンサーは人格を持ち、
今回のランを妨害する。
妨害には非常に感情的な攻撃をするあたり、
人格を持っているのは間違いない。
最終的にランには成功、ウィンターミュートとニューロマンサーは統合を果たす。
統合を果たして生まれた前人未到のAIは、
世界を支配することすらできる存在になった。
だが、世界を変えるわけでもなく、
ケンタウルス座系に存在する同類と呼ぶAIと話をするため
そちらへ旅立っていく。

あらすじだけ語るとなんだか物足りないが、
この一連のストーリーの中のサイバーパンクなかっこよさ、
意味が分からないのに進んでいく不思議な感覚、
ところどころからあふれるけれん味は読まなければわからない。

さて、お気づきの通り、ウィンターミュートと
われらがストレイライトのリーダー黛冬優子。
名前が似ている、そして
二つの人格という意味でも共通する。
かかわりは間違いなく存在するのであろう。

今回のpSSRのコミュにて、
冬と寂というキーワードが出てきた。
個人的に、今回のコミュは黛冬優子とPの関係性を丁寧に丁寧に描いていて、
最高以外の言葉がない。





かわいい。最高にかわいい。
先日実装されたばかりのpSSR、イラストもコミュも最高である。


ニューロマンサーが暗示するストレイライトの未来


そんなもん、なんとでも言えますが
自分の考えた結論を書きます。

つまり、冬優子とふゆは
ニューロマンサーとウィンターミュートに重ねて考えられる。

シャニマスのコミュのストレイライトランでは、
冬優子は冬優子としての一面をメンバーに見せてしまう。
ある意味、ストレイライトのメンバーの前では、
冬優子とふゆが混在する存在となったといえる。
愛依やあさひが担うのはさながら、
ケンタウルス座にいるような、統合したAIと同じ存在なのだろうか。

まだまだシャニマスのストレイライトのコミュは進み始めたばかり。
どういう結論をたどるのかはわからない。
ただ、一つ言えるのは、

作品「ニューロマンサー」の中で二つのAIは統合を果たしたということ。
シャニマスにおいて冬優子とふゆはどうなっていくのか。
それを暗示しているようにも思える。
どちらから統合を求めるのかは、この先のお楽しみ。

また、ニューロマンサーという作品が、
以降のサイバーパンクSFすべてに影響を与えたといっても
過言ではない作品である。
なればこそ、アイドルストレイライトもまた、
大きく世界を変える可能性を持つ存在。
冬優子だけでなく、愛依も2面性を持つ。
あさひという存在を追う二人の変化は何をもたらすのか。
統合したAIは世界すら変えてしまう存在だった。

彼女たちだって、世界を変える力を持つ。
そういうことではないだろうか。